膵臓癌を患っていた父が永眠いたしました。
最後は自宅で、母と子供全員に看取られることができました。
1週間前:ほぼ寝たきりで声がかすれる
会話があまりできなくなっていました。
声を出すのが辛く、飲み込むのも一苦労。
絞り出した声もかすれている状態で、急激に悪くなっていっているのを感じました。
治療自体は、抗がん剤も体力の低下でできていなかったため、何もできていない状態でした。
主治医には、
「緩和ケアで入院するか、自宅で介護していくかを選択してください」
と言われたため、在宅介護を選択しました。
コロナ渦で入院したら亡くなるまで会えない状態だとわかっていたためです。

でも、これに関しては後悔はありません。
家族のいない病院で
一人痛みを耐えて
死ぬのを待つ
それよりは、
少しでも長く家族といたいという父の想いと、
少しでも長く父と居たいという母の想いを優先させました。
病状が進んで言葉がほとんど出てこなくなった時も、ベットではずっと家族のいる方を向いて寝ていました。
3日前〜
食べ物が喉をとおらなくなり、自宅に通ってくれていた看護師さんに常時点滴をおすすめされました。
トイレは自分で行っていましたが、気力で行っている状態。
正直、足の浮腫がすごく歩けるような状態ではありませんでした。

起き上がるのが辛いので、介護ベッドをお願いしていましたが、介護認定が降りていなければレンタルできないとのこと。
2月の半ばからお願いしていたのに、3月からしか認定おりませんと役所対応されていました。
しかし、事情を知っている訪問看護の看護師さんが、
「この現状を正しく理解してもらえてないからそうなってるのかもしれない」
と電話をしてくれ、認定自体が下りるのは3月からでも、先にレンタルを回してくれることとなりました。
届いた時はボタン一つで上げ下げできるため、自分でこっそり家族がよく見える一番上の高さまであげたりして、父も楽しんでいたようです。
亡くなる前日には、水分も自分で飲み込むことができなくなっていました。
しかし、常時点滴の用意が間に合っていなかったので痛み止めは口から飲まなければいけません。
無理やり飲んでもらっても誤嚥が怖いため、「おくすり飲めたね」で飲んでいました。
▼参考(おくすり飲めたねは子供用のゼリー状飲料)
亡くなる日の夜には、お薬もうまく飲めずに痛みが強く出てとても寝られなかったようです。
母は父に、
「おかあさん。ごめん。(もっと生きて一緒にいるって約束してしたけど)もう無理や。安楽死させて欲しい。」
と言われたそうです。
我慢強く弱音を吐かないタイプの父でした。
どれほど辛かったか、考えるだけで涙が出そうです。
その後もお昼頃までずっと痛がっており、うなりながら耐えていて見ているのも辛い状態が続いていました。
13時半に訪問介護のナースさんが来て、点滴の準備開始しましたが、ポートからでも点滴が投与できなくなっていました。
脱水症状が出ていて血管が細くなりすぎ、て入らなかったようです。
そのため、入院するはこびになりました。
入院すると会えなくなるため、急いで仕事中の長女に電話をし、長女は30分ほどで駆けつけました。
そして。
座っている状態で痛みに耐えてうつむき加減になった時、呼吸が停止。
「おとうさん、呼吸止まってる!?」
「おとうさん!!!」
すぐに救急車を呼び、ナースさんに蘇生措置の心臓マッサージをしてもらいました。
5分後、救急車到着。
AEDでの蘇生措置もしてもらいましたが、甲斐もなく・・・
到着から30分後くらいに自宅を出発し、病院で死亡確認されました。
結果的に家族全員でお見送りができた形となりました。
「おとうさん、待っていてくれたんやなぁ・・・」
と泣き崩れた長女。
長女が到着してすぐの出来事でした。
後悔:訪問看護が来てくれない2日間
飲み込めず、栄養も取れない状態だったので、素人がみていても一刻も早く常時点滴にして栄養を入れてあげる必要があるのはわかりました。
でも、金曜日のお昼頃に点滴を入れに看護師さんが来てくれてから、次の月曜日のお昼頃に看護師さんが来てくれるまで、結果的に丸3日間ほぼ飲まず食わずの状態になりました。
数日かもしれませんが、確実にこの3日間で父の死期は早まったと思っています。
訪問看護のクリニックとやりとりをしていたのは母だったので、母が言うには、
「薬が来てないからまだ来れないと言われた」
「クリニックの方はよくしてくれてるけど、コロナ渦で訪問看護が増えて手が回ってない」
「緩和ケアで入院させられないから、クリニックの先生に頼るしかない」
など。。
正直、コロナ渦で訪問看護が増えているとはいえ、そのクリニックのキャパがいっぱいなだけで、他のところに頼んだらよかったのでは?
と思わずにはいられませんでした。
もっと毎日の治療方針についてどうなっているのか母に聞いていれば。
痛み止め点滴の薬が切れてあんなに痛そうな表情をしながら死期を早めることも防げたんじゃないかなと考えてしまいます。。。
つきっきりで介護していて満身創痍の母には口が裂けても言えませんので、ここでそう思っていたことを書いておきます。
余命1ヶ月で出席した長女の結婚式
1ヶ月前にちょうど長女の結婚式がありました。
今思えば、出席できるような状態ではなかったんだと思います。
すでに一人で歩けず、式場に行くのも支えてようやく歩ける状態。
式場の方にイスをそこかしこに用意してもらい、いつでも座れるようにしました。
倒れたら支えられるように長男もスタンバイ。
しかし。
バージンロードはしっかりと自分の足で歩き、新郎に心を込めて
「はい、託します」
と長女の手を引き渡しました。
本当にそんなことができる身体の状態ではありませんでしたが、気力で自分の力で立ち、最後の務めを立派に果たされました。
これが1ヶ月前のこととは信じられないように。
今は、この結婚式のムービーを何回も、見るたびに、みんなで号泣しています。
10月から体重が減り始め、11月に膵臓癌の仮診断、12月に膵臓癌の確定診断が降りてから3ヶ月。
あっという間で嘘のようです。
少し早く天国に旅立ってしまったお父さん。
「そんなに悲しむなや」
とお父さんなら言う。
お父さんが大切にしていたお母さんは子供たち全員で支えていきます。
安心してみていてください。